李氏の説明によれば昭和62年(1987)6月19日、以下のように浸透したとのこと。
工作母船が停泊したのは相島南方の海上。そこで船腹に収納されていた工作子船が離脱し深川湾に向かった。子船での移動中近くには漁船が多数いたが特に気付かれた様子はなかった。子船から組長が泳いで海岸に向かったのは21:00頃。牛崎の鼻に上陸した組長が待っていた男性と接線し、安全を確認して無線で子船に連絡。その後李氏がゴムボートで海岸に向かい2人を乗せて子船に戻った。戻った時刻は22:00から22:30の間。
この間子船が深川湾に停泊していた時間は1時間ないし1時間半ということになる。これについては後述のように伊藤祐靖・予備役ブルーリボンの会幹事長(元海上自衛隊特別警備隊先任小隊長)は長時間の停泊は発見の恐れがあり作戦の意図が分からないとの感想を述べている。
実際に浸透した李氏の話とコンバットダイバーの視点からその状況を検証した伊藤幹事長の感想のギャップは、極めて注目に値する部分である(後述セミナー発言参照)。浸透事態を全く気楽に考えていたとも思えるが、一方で要員に対し事前に訓練をしっかりやっていることと、日本側に存在が暴露されやすいやり方をしていることの関係を見ることで、あらためて北朝鮮工作活動の本質に迫ることができるような気がしている。
連れて行った男性は20代半ばで学生か大学院生という感じ。商売をしたり労働に従事している感じではなかった。朝鮮語は流暢だった。在日ないし韓国人ではないか。